kisscheekbones

自分の考えたことのメモです。

「かわいそう」じゃない

自分じゃ変えられないことを「かわいそう」と、言われるのも言うのも嫌だ。

私にとっては主に家族のことなんだけど。

 

かわいそう自慢をしたくないので、詳細は省くけど、私の家は母子家庭+αのちょっとした複雑さがある。でも母は正社員だし、習い事もさせてくれたし、良い保育園や私立の学校にも通わせてくれたし、周りの人にも恵まれて、ずっと自分が「かわいそう」だなんて思ったこともなかった。少し大変な時期もあったけど、自分よりつらい人がいるのはわかってたし、何より、母が超~~~~楽観的な人だから、とりあえず生きてればOK~!と言われ続けて育ったので、私もOK~!と思って楽しく呑気に暮らしてきた(し、今も割とそうだ)。

順調に生きてきたタイプでしょ!恵まれてていいなぁとか言われることも多々ある。そうっすよ!と言う時もあるし、いやいや波乱万丈っすよ!と返す日もあるけど、なんかもう気分だ。どう返しても、適当な冗談を言ってるような気分に違いは無い(自分のそれまでを一言で言い切れる人なんているのか?)

 

ひとつだけずっと心がずきずきして、すべてのコンプレックスがその時突然開花した、みたいな出来事がある。

 

高校2か3年生の時。私は公立美大志望で、受験科目が少ない&勉強が嫌いという理由で、「私大文系コース」だった。私立の進学校で、このコースにいるのは、有名私大の指定校推薦や、AOを受ける子がほとんどだった。

小論文の授業だった。気心の知れた常勤の教師ではなく、初めて教わる非常勤講師の、30代くらいの女性の先生。教え方がシンプルでわかりやすく、上品なのにたまに毒づくのが生徒に受けて人気があった。

ある日、お題が「職業開放性係数」になった日があった。忘れっぽい私だがこの言葉だけはずっと耳にこびりついている。長ったらしい言葉だが、要は親の所得や学歴や社会的階級が、子の学歴や職業にかなり影響する、という話だ。医者の親が医者だったり、長嶋一茂の親が長嶋茂雄だというようなことだ(今の一茂を見るとなんかちょっと違う気もするが)。もちろん親への憧れや、その職業を身近に感じることも理由にあるけれども、医者や弁護士になるのにはかなりのお金や整った環境が必要だ。努力以外の要因も、かなりある。

要は、私立高校に通って裕福で身だしなみも綺麗で、私大文系コースにいるあなた方は恵まれているのよ、ということだったんだと思う。そう確信する理由は、「職業開放性係数」にショックを受けた私が「自分は親も高卒だし・・・」と言ったら「私のお父さんは中卒よ!」とすかさず返されたことだ。知らんがな以外の感情が無かったが、生徒にそこまで牙を剥ける「教師」の存在はショックだった。

とにかくこの時、「あなたは不幸だと社会で決められているのよ」と言われたのだ。初めて自分の幸せを疑った。

 

でも、今考えると確かにかわいそうだったかもしれないこともある。それは、人生のかなり早い時期に「深く考えることを放棄した」ことだ。

楽観的な母と、ちやほやしてくれる大人たちに囲まれて、「自分はみんなと同じ」「自分は不幸じゃない」と当たり前に思っていた。

でもふと周りを見ると、みんなお父さんや兄弟や親戚がいて、一戸建ての隣に幼馴染が住んでいたりして、テレビはそれを「幸せ」だと放送していて、あれ?と違和感を覚えた。私はそうじゃないのに。

でもそこで、その違和感を掘り下げてしまうと、「もしかしたら自分が幸せじゃない可能性」に気づくかもしれない。だから、色々なことを深く考えることを放棄した。

だから今、自分のあまりのバカさ加減にうんざりしている。もっと考えて生きてこいよ、と。でも、もし考えていたら、生きれなかったかもしれない。どちらが良いのかはわからない(母の教えでは「生きてればOK~!」だ)。このことが「かわいそう」なのか。当たり前に考える機会を剥奪されたことが?

 


上手く言えないが、それでもやっぱり私はかわいそうじゃない。私をかわいそうにしているのは社会であって、私自身は幸せだと信じている。私を幸せにするのも不幸にするのも、私にしかできないのだ。