kisscheekbones

自分の考えたことのメモです。

初恋

野田彩子『潜熱』を読みながら、頭の中でずっと宇多田ヒカル『初恋』が流れていた。リリースしてからこの曲をひたすら聴いてるせいもあるんだけど・・・。

潜熱は、恋をしたことない、男性恐怖症ぎみの女子大生が、親より年上のやくざに恋をする漫画で(こうやって要約してしまうと薄っぺらくなっちゃうな)、

マンガワンスマホアプリ)で連載してたモブサイコとあちらこちらぼくらがどっちも終わって、手持ち無沙汰になって、なんとなく読んだ。一気読みはできないけど、無料で読めるから、とてもおすすめしたい・・・(私は我慢できずに課金した)(その上で単行本も買った)(アホである)

 

正しい恋、まともな恋ってなんだ、と考える。

この漫画は、とにかく読んでてハラハラするんだけど、それは主人公が、正しさやまともさを一切考えず、人の話を聞かず、自分が決めた恋に突っ走るからなんだよね。

 

主人公の瑠璃が、恋敵(?)に言ってた

あなたにも、自分の親友にも、彼の部下にも、彼にも関係ない・・・私 逆瀬川さんがほしいの。

逆瀬川(ノセガワ)は、瑠璃が恋するやくざなんだけど。

なんて強い言葉なんだろうと思った。


でも、恋って一人ではできないものなんじゃないか。

いや、恋はできるかもしれないけれど、その好きな人と一緒に暮らしたり、色々なことを共有したり、嫌なところも受け入れたりするのは、恋というより愛や情というような気がして、愛や情は自分と他人との関係性や過ごした時間の中に生まれると思うのだ。

瑠璃は、それを知らないんじゃないかと思う。やくざと一緒になるか、家族や親友との日常を守るかという2択ではなくて、「逆瀬川が欲しい」の後のことを考えず、自己完結しちゃってるから、危うい感じがする。


最終巻はまだ未発売なんだけど、最初から最後まで瑠璃はずっと色んな人から「まともな恋をしろ」と言われ続ける。恋が愛や情に変わること、愛や情や日々のまともな暮らしは一人じゃできないことを知っていて、「まともじゃない恋」と天秤にかけた時にまともを選ぶのが大人なんだとしたら、瑠璃は何も知らない子供だ。でも、まともなのが正しいがどうかなんて、本当は誰も知らない。手の届くところに欲しいものがある。ほしい。一緒にいてほしいと思ってしまったから。離れるのが絶対に嫌だってわかっちゃったから。


2度目、3度目ならそれが恋だとわかるけど、今までしたことがないから、

うるさいほどに高鳴る胸に、すくむ足に、伝う涙に知らされて、初めてそれが恋だとわかる。

そう考えると、恋というのは初恋の1度きりなのかもしれない、と思う。

そうしてあなた以外では生の喜びも死の苦しみも考えなかったし、初恋は一生あり得なかった。


私は最終話、瑠璃の選んだあの結末が、良いのか悪いのか、あの先瑠璃がどうなっていくのか、全然わからない。逆瀬川のせいで死ぬのかもしれない。でもそれが悲しいことなのか?単行本が出たら、通して読んでまた考えたい。


・・・


『日本の名随筆』という、色んな作家の随筆をテーマごとにまとめた100冊くらい(もっと?)のシリーズがあって、その中の『恋』が好きなんだけど、中でも一番好きな富岡多恵子の『アイスル・アイシナイ』にも、こういう恋とか愛とか暮らしについてのことが、とっても小気味よく、ライトに書いてある。きっとこういうことは、恋以外のことにも当てはまる、人がずっと悩んでいくことのひとつなんだろうなあ〜。

「かわいそう」じゃない

自分じゃ変えられないことを「かわいそう」と、言われるのも言うのも嫌だ。

私にとっては主に家族のことなんだけど。

 

かわいそう自慢をしたくないので、詳細は省くけど、私の家は母子家庭+αのちょっとした複雑さがある。でも母は正社員だし、習い事もさせてくれたし、良い保育園や私立の学校にも通わせてくれたし、周りの人にも恵まれて、ずっと自分が「かわいそう」だなんて思ったこともなかった。少し大変な時期もあったけど、自分よりつらい人がいるのはわかってたし、何より、母が超~~~~楽観的な人だから、とりあえず生きてればOK~!と言われ続けて育ったので、私もOK~!と思って楽しく呑気に暮らしてきた(し、今も割とそうだ)。

順調に生きてきたタイプでしょ!恵まれてていいなぁとか言われることも多々ある。そうっすよ!と言う時もあるし、いやいや波乱万丈っすよ!と返す日もあるけど、なんかもう気分だ。どう返しても、適当な冗談を言ってるような気分に違いは無い(自分のそれまでを一言で言い切れる人なんているのか?)

 

ひとつだけずっと心がずきずきして、すべてのコンプレックスがその時突然開花した、みたいな出来事がある。

 

高校2か3年生の時。私は公立美大志望で、受験科目が少ない&勉強が嫌いという理由で、「私大文系コース」だった。私立の進学校で、このコースにいるのは、有名私大の指定校推薦や、AOを受ける子がほとんどだった。

小論文の授業だった。気心の知れた常勤の教師ではなく、初めて教わる非常勤講師の、30代くらいの女性の先生。教え方がシンプルでわかりやすく、上品なのにたまに毒づくのが生徒に受けて人気があった。

ある日、お題が「職業開放性係数」になった日があった。忘れっぽい私だがこの言葉だけはずっと耳にこびりついている。長ったらしい言葉だが、要は親の所得や学歴や社会的階級が、子の学歴や職業にかなり影響する、という話だ。医者の親が医者だったり、長嶋一茂の親が長嶋茂雄だというようなことだ(今の一茂を見るとなんかちょっと違う気もするが)。もちろん親への憧れや、その職業を身近に感じることも理由にあるけれども、医者や弁護士になるのにはかなりのお金や整った環境が必要だ。努力以外の要因も、かなりある。

要は、私立高校に通って裕福で身だしなみも綺麗で、私大文系コースにいるあなた方は恵まれているのよ、ということだったんだと思う。そう確信する理由は、「職業開放性係数」にショックを受けた私が「自分は親も高卒だし・・・」と言ったら「私のお父さんは中卒よ!」とすかさず返されたことだ。知らんがな以外の感情が無かったが、生徒にそこまで牙を剥ける「教師」の存在はショックだった。

とにかくこの時、「あなたは不幸だと社会で決められているのよ」と言われたのだ。初めて自分の幸せを疑った。

 

でも、今考えると確かにかわいそうだったかもしれないこともある。それは、人生のかなり早い時期に「深く考えることを放棄した」ことだ。

楽観的な母と、ちやほやしてくれる大人たちに囲まれて、「自分はみんなと同じ」「自分は不幸じゃない」と当たり前に思っていた。

でもふと周りを見ると、みんなお父さんや兄弟や親戚がいて、一戸建ての隣に幼馴染が住んでいたりして、テレビはそれを「幸せ」だと放送していて、あれ?と違和感を覚えた。私はそうじゃないのに。

でもそこで、その違和感を掘り下げてしまうと、「もしかしたら自分が幸せじゃない可能性」に気づくかもしれない。だから、色々なことを深く考えることを放棄した。

だから今、自分のあまりのバカさ加減にうんざりしている。もっと考えて生きてこいよ、と。でも、もし考えていたら、生きれなかったかもしれない。どちらが良いのかはわからない(母の教えでは「生きてればOK~!」だ)。このことが「かわいそう」なのか。当たり前に考える機会を剥奪されたことが?

 


上手く言えないが、それでもやっぱり私はかわいそうじゃない。私をかわいそうにしているのは社会であって、私自身は幸せだと信じている。私を幸せにするのも不幸にするのも、私にしかできないのだ。

最短で最大の幸せ

私は結婚ができない。

私は同姓婚をしたくないから。

だから、「今の日本では」結婚ができない。

(※国際結婚なら別姓婚できるよ〜)

 

なぜ同姓婚をしたくないのか

 

というと、自分の姓に思い入れがあるから、色々な届出をしたり仕事する上で面倒だから、さまざまな理由があるけれど、とにかく結婚するために男女どちらかの姓を変えなければいけない、と法律で決まっているのは、変だ。

しかも、よっぽどの理由が無い場合は、女が姓を変えなければいけないようで、

結婚する、姓が変わる、男の「家に入る」、=全女の幸せだと、まだみんな信じきっている。

変だ~

 

名前ってアイデンティティだ。

男にとっても女にとっても、それ以外も、関係ない。名前に縛られる必要は無いけれども、自分がどう名乗り、どう生きて行くかを決める権利は自分だけにある。

 

ちなみに、私は姓に何の思い入れも無いし、別に姓がどうなってもいいのだけど、パートナーとは常に対等な関係でありたいと考えているから、「どちらかが姓を変える」こと自体が納得できない。だから別姓婚か、「お互いで自由に自分たちの姓を作っていい婚」とかじゃないと嫌なのだ。

 

でもいくら私みたいな人たちが必死に抵抗し、主張しても、社会が変わるとは思っていない。

 

だって、固定観念って楽だからだ。

頭を使わなくていい。

 

私は同性婚に賛成だし、別姓婚にも賛成だし、事実婚も、別居婚も、友達と一生暮らすのも、一人で暮らすのも、三人でひとつなのも、相手が代わる代わる変わるのも、賛成というか、その人が勝手にすればいいと思う。だって誰が誰と一緒に暮らそうが、私には全然関係ないし、誰が誰と一緒にいるかを決める権利は、私にはひとつも無いから。自分のがあるだけ。

 

こういう考え方は、「正解」が無い。正解も不正解も無い。ただそこに、その状態があるだけ。

でも、頭を使わずに、カンタンに白か黒かを決めたい人にとっては、こういう考え方は邪魔だ。「これが幸せ」という答えがあって、それに沿ってるか沿ってないかで判断したいのだ。

 


カンタンな正解は、誰にでもわかりやすいから、強い。

正解も不正解も無い、「ただの状態」は、弱い。わかりにくいし、判断しにくいし、自分ごとにもしにくいし、70億人いれば70億通りの「状態」があるから。

70億なんて、途方も無さすぎる。2ならカンタンだ。

 


だから私は、馬鹿げた「幸せ」や「不幸せ」や「正解」や「不正解」や「男」や「女」を押し付けてくる、バカでどうしようもない人たちや社会にいつか勝てるなんて、全然思ってない。みんなが幸せな社会なんて絶対来ないと信じている。それは絶望とも言う。

だけど、自分の中で、自分の考えだけは曲げないで生きてれば、70億分の1の自分の幸せな人生を送れると信じている。そしてどうにか生きている。